座敷わらし同好会

当会は会費の無い自由な会です

Contents
 
お問い合せ
座敷わらし同好会
代表
 内山正朗




当同好会代表プロフィール

北海道岩見沢市在住
元高校教諭
初代亀麿会会長。
緑風荘に、のべ120回以上の宿泊経験を持ち、座敷わらし(亀麿君)と数多く遭遇している。緑風荘に宿泊してからオーブが肉眼で見えるのだが、本人曰く「霊感が無い」らしい。趣味は
バンド活動、酒器の収集、鑑賞する事。







 亀麿君を考える
こちらのページは北海道在住の内山代表と加藤・藤原氏による「亀麿君とは?」を 旧亀麿会の亀麿チャンネルで対談したものを文章にまとめたものです。亀麿君はいったい誰なのか?、どこから来たのか?歴史の文献を解析し推測を交えお話しをされています。

 
平成25年11月28日
今回、このお話のデータを北海道事務局のご厚意により素敵なイラスト写真入りで
PDFファイルにまとめました。事務局ではデータが欲しい方への無料配布を行います。
データご希望の方は事務局までご連絡ください。




手順は、
ご連絡→事務局より宅ファイル便にて転送→ダウンロード

宅ファイル便 http://www.filesend.to/
(*なお、宅ファイル便に登録は任意です。)

今回のデータは容量が大きいため携帯等への転送は出来ませんのでご理解願います。
またPC専用ですので宅ファイル便サービスにて皆様にお送りいたします。





  かめまろちゃんネル vol.63

さて、今回のかめまろちゃんネルは亀麿君の足跡をたどる、内山さんの大胆な仮説をご紹介いたします。南北朝時代の南朝方家臣、藤原某はなぜ、金田一にたどり着いたのか? はたして彼は本当に亀麿君の父親であったのか?さまざまな資料をもとに、会長が推察した亀麿君一家の足取りとは? なかなか興味深いお話でございます。ぜひ、お聞き下さい。
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藤原:
座敷わらしというと、加藤君はどんなことを思い出しますか?


加藤:
ある家にぽっと棲み着いて、するとその家は繁盛して、座敷わらしが出て行くと家も衰退するという・・・、気まぐれな子供の妖怪というか精霊っていうのかな?そんな感じだよね。


藤原:
そうだね。東北地方に伝わる伝承話としてはそのとおりなんだけど、実は緑風荘の座敷わらしはちょっと違うというか。ね。まず、亀麿という名前がある。座敷わらしに名前があるっていうのも普通の伝承話とちょっと違うみたいだけど、どうやらそのあたりのことを内山会長が調べてくれたようですよ。


内山:
まぁ、調べるというよりも趣味ですかね(笑)。緑風荘の先々代のご当主・栄一さんが、「我が家の座敷わらしは、俗に言われているわらしとは違う」というふうにおっしゃってるんですよね。で、何が違うのかというと、歴史的背景があるんだ、というわけです。そして我が家(五日市家)を守ってくれているので、出て行くなんてこともないんだというわけです。


藤原:
ということは、気まぐれにぽっと出て行っちゃって、家が没落するなんていうことはありませんよ、という・・・?


内山:
えぇ。(座敷わらしは)どこの誰だか分かっているからというわけです


藤原:
すると、言い方を変えると緑風荘の座敷わらしはかつて実在していたと言って良いわけですね?亀麿君は。


内山:
そういうことですね。ただ、一般的に言われる座敷わらしも緑風荘の亀麿君も、幼くして亡くなった子供であったという点は同じですよね。ただ、私が出会った座敷わらしはね。たぶん魂が実体化して現れたものではないかな?と思うんです。ということは、魂があるというのは間違いなく昔、生きていた存在であったと確信しているんです。

藤原:
そして今も現存しているんだと言うわけですね。


内山:
えぇ、そうです。話は変わりますが、ここからは私の趣味として調べたことなんですが、南北朝時代の南部藩というのは完全なる南朝方でしてね。太平記に出てくる北畠家の家臣だったと言われていました。北畠家というのは元々は公家ですからね。当時の南朝方は公家が集まって形成していましたから、南部藩のような武士集団というのは南朝方にとっては貴重な存在だったわけです。そしてこの南部藩は、北畠顕家の子孫やら家臣らが戦いに敗れて逃げ延びてくる南朝方の北の拠点だったわけです。
だから、亀麿様ご一行が南部に逃げて来たということは、つじつまが合う話なんです。歴史的にも矛盾はないと思いますね。まず一つにはこういう話ですよね。

藤原:
とりあえず一つめの話は、ということですね?


内山:
はい。次に、思い出してもらいたいんですけど、以前この番組を聞いた風水さんという方から、岩手県姓氏歴史大辞典(1998年刊)のコピーを送ってもらいましたよね。ちょっとこれを読みますね。「二戸市金田一長川に、座敷わらしの伝承で著名な五日市家がある。家伝によると南北朝の戦いに敗れた藤原某が、武蔵国五日市に逃れ、後、藤原彦左衛門繁春の代の興国2年・・・」、えっと興国2年というと加藤さん、何年でしたっけ?

加藤:
西暦1341年とありますね。


内山:
1341年ですね? 「1341年に金田一小林に移り・・・」小林っていうのはかなり手前の方ですね。橋を渡って歩いていくと緑風荘から5?6分くらいかな? 「その小林に移り、五日市家初代となった。その後、9代後に長川(おさがわ)に移り・・」

加藤:
長川といったら、今の場所ですよね?


内山:
そうそう。それについては五日市洋さんから『あそこは三回目の土地だ』
というふうに聞いてましたから、書いてある通りだろうと。で、続けますよ。「長川に移り、正徳年間(1700年頃)より墓碑に五日市姓が見える。」と。つまり、1341年には金田一に入っていたということですね。


藤原:
ほほぉ?。でも、そのあたりのことはやはり歴史の闇に紛れている部分
でもありますよね。金田一に温泉が発見されたのはそんなに古い話じゃないし。

内山:
江戸時代くらいのことですよね?


藤原:
そうそう、350年くらい前のことだから、1341年という時代に、
はたして金田一のあたりに人が住んでいたのか? 町があったのか?


加藤:
町というより、あったとしても小さな集落程度でしょうね。まぁ、大き
い川のそばですからね。人はいたかも知れない・・・。


藤原:
だよね?。なので、ここはぜひ内山さんにそのあたりのことを深く掘り
下げてもらって、教えてもらいたいなぁと・・・(笑)。

内山:
そういう意味では、あのあたりはかなり昔から人が入り込んでた跡はあ
るんですよ。浄法寺町という天台寺のあるところなんか、西暦728年に山を開いているわけですからね。あそこは今でも人里離れた山の中ですよ。
でも、それを考えたら1300年代といったら倍ですからね。そんなに無茶な話ではないんですよね。南部藩も栄えていたわけだしね。それにだいたい入植するというと、開けた土地なわけはないですから。未開の土地を開拓しなさいよということですからね。


藤原:
南北朝時代に五日市家のご先祖は逃げ落ちて金田一に入植した、という
ことですね。


内山:
えぇ。で、ここからが私の趣味なんですが、東京の五日市に落ち延びて、まぁそこから五日市姓を名乗ったということですが、どうやってその五日市からどんな道のりで金田一に来たのか、そのあたりをじっくり調べてみたいなと思ってるんです。

藤原:
そうですね。とにかくこのお話にはいろいろな枝葉がありますよね? どれが本当やらわからない言い伝えが(笑)。はたして亀麿君はどうやって金田一までやってきたのか、そこが大きな謎でもあるけど、実はだいぶ分かってきている部分もありますよね。


内山:
あの時代、通れる道なんてそんなにないんですよ。それこそ、あそこか?ここか?っていうくらいしか道がない。でも、そうは言ってもなんせ大昔の話ですからね。


藤原:
いやぁ、これはもうぜひ、内山さんに調べて欲しいな?、聞かせて欲しいなぁと思いますね。


加藤:
はい。盛り上がってきたところで、今日はここまで!


つづく

 
   かめまろちゃんネル vol.65
さぁ、今夜はいよいよ亀麿一族の謎の核心に近づきます。北朝方に追われ、現在の東京・五日市(現あきるの市)に逃れてきた一族は、さらに北をめざした。その時、逗留していた五日市の地名を姓にして金田一にたどり着いたと言われていますが・・・?時として歴史というものは残酷な事実を突きつけます。言い伝えと実際の歴史の食い違い。そこにはどんな秘密が隠されているのか? また、なぜ、今のような言い伝えが残っているのか? 亀麿会会長の冷静沈着な推理は、その歴史の矛盾をあえて示すことで、真実へと一歩一歩近づいていきます。なかなか聞き応えのある番組となりました。ぜひ、お聞き下さいませ。
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加藤:
さて、亀麿様ご一行の足跡を辿る推察、今回も内山さんに詳しく伺 ってまいりましょう。

内山:
まず始めに、こういった伝承話というのは、突き詰めていくとあちこちで辻褄が合わなくなってくる場合が多いんですけど、まぁそのあたりのことはなぁなぁで、あまりギスギスとしなくても良いだろうということで成立しているわけです。だから、踏み込むということは、ある意味タブーに触れる行為でもあるんだということですよね。ただ、足取りを追うということは、そういうタブーに踏み込まなくてはいけないわけですよね。

藤原:
そうですね。普通の単なる昔話ならそれでいいわけなんだけど、この亀麿君の話に関してはところどころ微妙に歴史に残っているんですよね。それも(時間軸が)飛び飛びで。年代だとか名前だとか・・。
それがどこがどう繋がるんだろう?っていう興味が尽きないわけですよ。

内山:
藤原さんも最初の頃はずいぶん調べていましたよね?

藤原:
えぇ。あの分厚い太平記を読んだりしてね(笑)。でも、結局どの本にも亀麿君の具体的な話題なんてのは出てこないわけですよ。

内山:
はい。それでですね、前にお話した、岩手県姓氏歴史大事典によると
「五日市家の先祖が武蔵国の五日市に逃れる」とあって、そこから足跡が歴史に出てくるわけですよ。そして1341年に金田一小林に落ち着き、五日市家初代となる、とあり、9代後に金田一長川に移る、
となっています。ちょっとここまでで切りますね。
まず、武蔵国の五日市に逃れたとありますが、この「五日市」という地名が名付けられたのは戦国時代の末期なんですよ。歴史の文献に五日市という地名が最初に記されたのは1574年なんです。

藤原:
ということは、230年近くもズレるわけですね?

内山:
えぇそうなんです。えらいズレちゃってる。
これはもう絶対にタブーですよね。
まぁ、五日市家の先祖がそこに逃れたということが事実だとしても、
当時はそういう地名ではなかったわけです。あきらかに矛盾してる。

藤原:
ん?。ちょっと確認しておきたいんだけど、五日市家初代は藤原彦左衛門繁春という人で、その人が武蔵国の五日市を経て金田一に来た、と。で、その繁春に二人の子供がいて、それが亀麿君と弟君だと・・・?

内山:
いや、いいですか?もう一度岩手県姓氏歴史大事典を読みますよ。

「南北朝の戦いに敗れた藤原某が、武蔵国五日市に逃れ、のち、藤原彦左衛門繁春の代(1341年)に金田一に移り、五日市家初代となった」と書かれているんです。つまり、藤原繁春は五日市家初代なんだけれども、武蔵国五日市に逃れた藤原某というのは、繁春よりもっと前の代である、ということなんですよ。

藤原:
あ、そういうことですよね。となると、亀麿君はどこから出て来るのかな?という部分がまだわからない(笑)。

内山:
ただ、言い伝えによれば、一緒に逃げて来てるわけですから。
繁春さんより前の代の先祖と共にということでしょう。
おじいさんとか、その前の代とか。

藤原:
ということは、繁春さんは亀麿君の??

加藤:
甥っ子とかになるとか?

内山:
いや、一緒に逃げて来てる可能性もありますよね?例えば、お父さんだ
としたら(亀麿君は)息子ですしね。

藤原:
だから、単純に言うとこの藤原繁春さんが亀麿君のお父さんではない、

ということですよね? もっと上の代の話ですもんね。

内山:
そうです。それで、あれ?と思ったことがあるんだけど、同じ岩手県姓
氏歴史大辞典に、「1341年に五日市家初代となり・・・とあって、これより後、1700年頃に墓碑に五日市の姓が見える」と書いてあるんです。つまり、五日市家初代を名乗ったにもかかわらず、それから350年ものあいだ、五日市の姓が出てこないんです。普通はあり得ませんよね。

加藤:
ふむふむ。ものすごく長寿だったとか。

内山:
なに言ってんですか(笑)。しかしこの350年というのはね?。
(当
時の)人生50年と考えても・・・。

藤原:
あの?、9代のちに金田一長川に移るってあるでしょ? 年代的に見れ
ばちょうどこの頃が1700年あたりじゃないの?

内山:
あぁまぁ、それくらいでしょうね。

加藤:
となると、長川に移ったあたりから五日市家になる、と・・・

内山:
ということは、それまでは五日市家を名乗ってなかったのか?という話
ですよね。まぁ、これはとんでもないタブーなんですけどね。ただ、我々からすれば1700年頃より五日市家だというのは、それだけでものすごい歴史のある家系なんだなぁと思いますね。でも、歴史を紐解いて見ると、350年間、五日市という名前には空白がある。

加藤:
ふむふむ。なるほど。

内山:
で、ちょっと整理しますとね。一つは、東京の五日市に逃れたから五日
市を名乗ったということに関しては、その当時そんな地名はなかったということ。もう一つは、1341年に五日市家初代となったと言われてますが、実際に五日市の姓が見えるのは1700年頃になってからだ、ということです。
これをどう解釈していくか? ただ、足取りとしてはすごく重要なことが見えてきてるとも言えるんだけど、私の考察の第一歩としては、ここで大きくつまづいているわけなんです。

藤原:
そうですよね?。スタートラインが曖昧なんだものね。

内山:
始めはスタートラインに五日市という名前があるから簡単だろうと(笑)。
当時の主な街道は決まってるし、すんなりいくだろうと思ってたんですけど、これがなかなか・・・。もう少し調べてきますので、続きは次回ということで。

藤原:
ここまでだとすると、まだ亀麿君のお父さんのことは、何年頃の人でな
んというお名前だったのか?ということは内山さんにもまだ分かっていないということですか?

内山:
はい。まだ全然分からないですね?。そのあたりのことも来週までに調
べてみます。

加藤:
はい。では今週はここまで?。

藤原:
来週が待ち遠しいですね?。


つづく

 
 かめまろちゃんネル vol.66
先週に引き続き、今週も亀麿一族の逃避行の謎にせまります。
五日市家に伝わる言い伝えでは、奈良から新潟へ渡り、そこから海路で東北に渡り、金田一にたどり着いたということになっておりますが、はたしてその言い伝えは本当なのか? 他にルートはなかったのか?
亀麿一族の逃避行を探れば探るほど、大きな矛盾がいくつも沸き上がってきます。そこで今回はあえてその矛盾を解明しようと、内山会長の深い深い洞察力が五日市家のタブーに挑みます。今回は"濃い"ですぞ。
それでは、どうぞ!


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加藤:
皆様今晩は。今夜も亀麿様ご一行の足跡をたどる旅、さっそく内山会さんに伺ってまいりましょう。

藤原:
はい。今週ですべての謎が解明される!と?

内山:
いやいや、まだまだ解明しませんね?。それでですね、先週の続きなんですが、五日市に逃れて後、五日市の姓を名乗った、と。まだ五日市という地名が世に現れる前にですからね。でも、そういう言い伝えなんだからということで、ここはもう、五日市姓を名乗ったということを踏まえて進めてみたいと思います。

藤原:
伝承を踏まえて、ということですね?

内山:
えぇ。じゃぁ、それは一体どういうことなんだ?ということから始めますね。南部藩というのはすごい力を持った武将なんですけど、元々は山梨県発祥なんですね。それが、陸奥の国(青森、岩手あたり)を与えられて、まぁ、そっち方面の面倒も見てくださいよという風に言われたわけです。で、亀麿様ご一行が都を出て逃避行をするわけですけど、北朝方の目を逃れて行動しなければならない。なので、当たり前から言うとまず山梨に逃れ、そこから南部藩の拠点である青森、岩手をめざす、というのが当たり前のルートなんですね。そんなふうに考えると、五日市というのは山梨から東京へ向かう、今の甲州街道の中にあるんですよ。まぁ、地図を見れば分かるんですけど、山梨からはすぐなんです。

加藤:
ふぅ?ん。(地図を見て)あ、ホントだ。

内山:
だからとりあえず、山梨で一息ついて、さぁ逃げるぞという時には、やっぱり甲州街道で五日市を通る。なぜ五日市かというと、ここから日光街道に出るんですよ。それから、会津西街道というのを通って福島県に入る。これが当時の当たり前のルートなんです。ただ、ここではっきりさせておきたいことは、甲州街道にしても日光街道にしても会津西街道にしても、街道がしっかりと確立されたのは江戸時代、参勤交代のために整備されたというのが歴史的な事実なんです。でも、江戸時代に街道が整備されたということは、それまでにもそこに道があった、ということですからね。そうして、亀麿様ご一行は福島県に入ったと思われます。

藤原:
そうですね。まずは会津若松ですよね。

内山:
はい。それでですね、そこから先の話なんですけど、会津若松から米沢街道という道を通って陸路で向かったか、もしくは越後街道を通って新潟へ行き、海路で向かったか、ですね。

加藤:
あぁ?、ん??なるほど。

内山:
ただ、実際に五日市家は岩手の二戸に着いてるわけですから。このどちらかを通っていったと推測できるわけです。それで、五日市洋さんによると、実は新潟から海を渡って来たという言い伝えがあるんですと言ってましたよね。

藤原:
えぇ、聞きました。聞いた時ちょっと愕然としました。しかも、青森にたどり着けなくて、遭難寸前で秋田に流れ着いたらしいと。で、そこから山越えをして岩手に・・・ということなんだけど、あの時代に秋田から奥羽山脈を越えて岩手へっていうのは相当厳しいんじゃないか?っていう・・・。まぁ、それ以上は洋さんに追求はしなかったんですけどね。

内山:
まぁ洋さんだって、そこはもうご先祖からの言い伝えですからね。それを我々のような門外漢があれこれ言ってもねぇ。それでね。今、藤原さんが言いましたけど、私も海路というのはちょっと首をかしげるんですよ。逃避行でねぇ。船を手配するっていうのは・・・。

藤原:
ですよね?。だって、少なくとも後醍醐天皇の末裔であろうといわれる一行ですから、ある程度の人数にはなるわけで・・・。それが、あの時代の船というと一艘に何人も乗れないだろうし、それを何艘も用意するってのはどうかな?と。

内山:
そうですよね。当時にしたってお金の問題とか、手助けしてくれる人が廻りにいるのか?とかね。

加藤:
へたに手助けしたら自分の身があぶないっていうことにもなりかねないし。

内山:
そうそう。それともう一つは、南朝と北朝の戦いの時に、南朝というのは貴族の集まりですから武士集団が少なかったというのが敗因の一つですよね。それともう一つ敗因としてあげられているのが、南朝方は船を使えなかったということなんです。

藤原:
はは?、そうなんですか。

内山:
えぇ。たくさんの兵隊を戦に向かわせるためには、陸路ではなく海路を使って運んだと言われているんですよ。一度に大量の人や物資を運ぶには船が最適ですから。南朝は船を使えなかったけど、北朝は船団を持っていたらしいんです。だから、亀麿様ご一行、つまり船を使えない南朝方がはたして船を用意できるのか?ということですよね。

藤原:
それもそうだし、船に乗って移動するという発想に思い至るか?っていうところでもありますよね。って、これは本当にタブーですよね? 五日市家に伝わる伝承を内山会長は真っ向から否定しているわけだから(笑)。

加藤:
リスナーの皆様、他言無用に願います。

藤原:
あはははははは!

内山:
まぁ、先週もお話しましたけど、突っ込んでいってどうなんだ?というと、言い伝えとはまた違うところで、整合性を持たせていかなければね。なので、本当に今はタブーに挑戦しているわけなんですけれども、私は海路は使わなかったんでは?と思います。そうすると、会津若松から米沢街道を通っていく陸路であろうと思うわけです。そして、この米沢街道というのは、実は日本最古の街道と言われているんです。ようするに、西暦500?600年代に仏教が東北へ渡った際の仏教街道だといわれているんです。

藤原:
ははぁ?。シルクロードの日本版みたいなもんですね。

内山:
そうそうそうそう! だから、逃避行したのが1300年代だとしたら、それよりも数百年前からこの道はあったわけです。

藤原:
当時は東北方面につながる道がもうこれしかなかったということですね?まぁ、けもの道みたいなものではあったにせよ、道は一本だけだったわけだ。

内山:
そういうふうに考えると、逃避行するというのに、やみくもに山に入るわけじゃなくて、(東北を)めざして行くわけでしょ? とすると、亀麿様ご一行は当然、米沢街道のことを分かっていて逃げて行ってるはずなんですよ。それでですね、もう一点、じゃぁ当時の会津はどうだったのかというと、実は当時は北朝バリバリだと私は思ってたんです。だから、北朝バリバリの会津に絶対逃げるわけないと思ってたんですよね。ところがね、いろいろ調べてみると、ちょっと違うんですよ。

加藤:
お? というところで来週に続く?。

藤原:
あれ? そうなんですか? あらら??。


つづく

 
 かめまろちゃんネル vol.67

五日市家に伝わる伝承を、大胆な推理であえて別ルートでの逃避行を提示した前回までのお話でしたが、今宵はさらなるタブーに挑戦していきます。金田一に着いて後に病に倒れたと言われる亀麿君ですが、そもそも彼は本当に金田一にたどり着いたのか? それならなぜ、亀麿君のお墓がないのか? また、先々代ご当主・五日市栄一氏が語った恐るべき「真実」。謎はますます深まるばかりです。
さぁ、今回も聞き逃せませんよ~!

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加藤:
さて、この1週間、皆さんやきもきされていたのではないでしょうか?

藤原:
いよいよ佳境に入ってきましたね。はたして亀麿君はどこからどのようにして金田一に入ってきたのか?

加藤:
その時、歴史は動いた・・・

内山:
はははは。

加藤:
はい。それでは内山さんが調べてきた結果と考察をお願いします。

内山:
はい。それでですね。当初、私は会津はバリバリの北朝方だったというイメージがすごくあったんですよ。なので、そんな会津を通るわけはないだろうと思ってたんですが、今回いろいろ調べた結果、ちょっと違ってたんです。つまり、1340年代までは福島県には南朝方が確固たる城を築いていたんですよ。正確に言うと、1347年に落城するまでバリバリ戦っていたんです。で、かなりの拠点がありまして、一つには霊山城(りょうぜんじょう)、もう一つは宇津峰城(うつみねじょう)という山城があって、それが拠点だったんです。それで、後醍醐天皇の子供らもここに常駐してて、それを錦の御旗にして北畠顕家らがここを根城にして戦っていたんです。

藤原:
まぁ、後醍醐天皇の時代には日本全国がいわば北朝南朝方入り乱れていたわけだよね。だから会津に南朝方の城があっても当たり前だったんですよね。

内山:
そうそう。それも半端な城じゃないんですよ。山城なんだけどなかなか攻略できないような。

藤原:
へぇ?。南朝にしては珍しいですね。

内山:
えぇ。そしてその他にもいくつか出城がありました。だから、1341年に金田一に入ったということであれば、その時福島を通ったというのは、ある意味正解なんです。

藤原:
そうですよね。そこで一息つけるわけだもんね。

内山:
そうです。

藤原:
だって、京都から山梨で一息ついて、山梨から五日市、福島で一息ついて、それからおそらく多賀城でも一休みしたでしょう、そして二戸という流れからすると、物資の補給なんかも必要だから自然な流れですよね。

内山:
そうです。ですからそういう考えからすると、やはり海路をとるより陸路をとるのが自然だろうと。そして、米沢街道は今、桧原湖という湖の底なんです。噴火でできた湖なんですけど、元々は湖はなくて、後にそこは桧原宿という宿場町になったところで、当時からもちろん人が住んでいたところです。で、そこから桧原街道という道が延びていて、山を越えると米沢なんですよ。だからおそらく、今の桧原湖を通って桧原街道から米沢をめざしたのではないかと推測できるんです。まとめると、福島から山形を抜けて秋田と岩手の県境を越え、盛岡を経由して金田一へ入ったのではないか?と思われるんです。

加藤:
ほぉ?、なるほど。

内山:
そこで、ここからまたタブーに挑戦なんですけど、実は亀麿様のお墓は金田一にはないんですよ。ただ、なんせ700年近くも前のことですし、今の長川というのは(金田一に入ってから)3度目の場所だと言われてます。だから、それに伴ってお墓も変わってるかもしれないですしね。そういうごたごたの中でお墓が無くなったものか、それとも初めからお墓はなかったのか?

藤原:
つまり、金田一で(亀麿様が)亡くなったわけではない、ということですね?

加藤:
お墓がないということは、そういう可能性もあるということですよね。

内山:
そうです。ただ言い伝えではこう言われています。逃避行したけど、金田一に着いたところで病気で亡くなったと。

加藤:
えぇ、言い伝えではね。

内山:
でも、金田一に着く前に病気で亡くなった、ということも、一つには考えられるわけですよね。お墓が無いという意味からするとね。

藤原:
あと、先々代の栄一さんのお話の中で、亀麿君は殺されたんだ、というお話がありましたよね? つまり、今現在、洋さんのおっしゃる死因とはあきらかに違うことを言ってたんだけど、それを今の話に入れるとごちゃごちゃになっちゃいますよね。

内山:
いや、言い伝えというのはね。つまりはそういうわけなんですよ。今で27代目ですからね。その間ずっと言い伝えられてきたわけだから、話もどんどん変わってしまう可能性があるわけですよ。確かめようもないしね。それに、当初は先祖が・・・という話だったけれど、ある時から座敷わらしになって、という言い伝えも始まってしまった。そうすると、長い間には、まぁ、商売をしているということもあって、多少良いように脚色されてきたのかなと思う部分もあるわけですよ。

藤原:
確かにそうですよね。今の洋さんの話が一番自然だしね。金田一まで来て病死したというのは。でも、二代前の栄一さんは殺されたと言っている・・・。

内山:
けどね。殺されたとなると、金田一ではあり得ないんですよ。

加藤:
なんで?

内山:
いや、だって金田一はもう南朝方の南部藩の中だから。

加藤:
あぁ、そうか。北朝方に襲われるような場所ではない、と。

内山:
そういうことです。

藤原:
となると、殺されたのは金田一よりもっと前の場所ということになる。

内山:
それと、お墓が無いということを、ムリに結びつけようとすれば結びつく話なわけです。

加藤:
いやぁ、皆さんはどうお考えになりますか?

藤原:
これはね?。これはまだまだ結論が出る話じゃないですよね?

内山:
いやいやいや、本当にね。これからもうちょっと面白くなるかもしれな
いですよ。というのは、まぁ、眉唾というわけではないんだけど、ちょっと面白い話を入手したのでね。次回からそのお話をしたいと思います。

加藤:
はい。というわけで今週はここまで。

藤原:
来週がまたまた楽しみになってきましたね?。



つづく

 かめまろちゃんネル vol.68
皆様、お待ちしておりました。
さて、今宵のかめまろちゃんネルでは、大きな謎が解き明かされます。収録中にも関わらず、思わず拍手するもの、ミャァ~♪と鳴くもの(これはK藤君のにゃんこ)、大興奮の回でございます。
前回までの番組で、亀麿様ご一行の逃避行には会津を起点として二つのルートがあるというお話をいたしました。そして今回、その二つのルートに隠された驚くべき仮説が飛び出します。
また、亀麿君の弟君に関する話が一切表に出てこなかったのはなぜか? そのあたりのタブーにも内山さんは鋭いメスを入れます。あぁもう、とにかく聞いてください!そして、ぜひぜひ!皆様からのご意見ご感想をいただきたいのです。よろしくお願いいたします。

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藤原:
さて、先週までのまとめですが、亀麿様ご一行の逃避行、会津若松まで来て、そこから越後街道を抜けて海路で行くというルートと、米沢街道を通って陸路という、二つのルートが考えられるけど、常識的にはおそらく陸路を使ったであろうと。でも、海路を使ったという話を完全に否定できないわけで、それは五日市洋さんが伝え聞いている話では海を渡ってきたと言われているからです。というあたりのことを踏まえて、今週からはさらに深く探っていこう、と。で、これからのテーマとして内山さんがちょっと資料を作ってきてくださったのですが、タイトルが「幼い兄弟。6才と4才の男の子」とありますが?

内山:
えぇ、そうです。先週までのお話では陸路を使ったと。でも本当に海路を使うという選択肢はなかったのか?なぜ海から来たという言い伝えが残っているのか? そのあたりのことを考えるヒントは、今、藤原さんが言ってくれたとおり、幼い男の子の兄弟。6才と4才ですか? ただ6才というのは、(亀麿様が)亡くなったという年齢ですからね。逃避行が始まった頃はもっと小さかったでしょう。すると、そんな小さい子供を連れて逃げるのは大変だろうと思うわけです。で、家名を存続させるためには、少なくともどちらか一人が生き延びなくてはいけない。で、昔はこういう場合往々にしてあったことなんですけど、二手に分かれ
て逃げる・・・と。

藤原:おぉ?!面白い!わははは!とても面白い!見えてきたぞ!

内山:
うん。そこでね。五日市家には海路を使ったという言い伝えが残っていると。つまり、逃避行は会津若松から陸路と海路の二手に別れた・・・と言えるのではないかと。

藤原:
うんうんうん!すごいすごいすごい! 面白いねぇ、このおじさん!

内山:
はははは。そうですか? でね?亀麿様は6才で亡くなったと言われています。ということは、五日市家は代々続いているわけだから弟が家を継いでいたということになるわけです。それ
はつまり、海路を使った弟の方が南部藩までたどり着いたというわけです。

藤原:いやぁ、拍手していい? パチパチパチ! 素晴らしい!

内山:
だから、亀麿様は陸路を使い、幼くてあまり歩けない弟君は海路を使った。そういうふうに考えると、言い伝えに矛盾はなくなってきます。

藤原:
確かにそのとおりですね。実は以前、洋さんからオフレコだけどということで、実は亀麿君は金田一までたどり着けなかったんだ、ということを聞いたことがあるんです。だから、弟君が金田一にというのはものすごく真実味がありますよね。

内山:
まぁ、旅館業ですからね。座敷わらしのメインである亀麿様が殺されたという話はそぐわないでしょう。ただ、旅館業を始めた先々代は殺されたと言っている。つまり、その頃まではそういう言い伝えであったのでしょうけど、客商売で考えると、病気で亡
くなったといった方が無難ですからね。

藤原:
そういうことなんですね?。なんか今の話って、強引な辻褄合わせなんかじゃなくて、すごく自然な流れに沿ってますもんね。

内山:
そうなんですよね。亀麿様が病気で亡くなったとなると、とても病弱なイメージがあるけども、殺されたとなると話は全然変わってきますからね。長男である亀麿様を、まぁ、安全な陸路を使わせて、まだ小さかったということもあるけど、弟君を海路へ、というのもしごく当然なことだと思うんです。

藤原:
いや?、これは面白い展開になってきましたね。ということになると、亀麿様の弟さんはこれまではまったく表に出て来なかったから、どうなったんだろう?名前はなんていうんだろう?という疑問があったんだけれど、そのあたりもかなりはっきりと見えてくるのかな? さらに展開が拡がっていきそうですね。

内山:はい。そのへんもね?

加藤:それはまた次週!

藤原:次週? え?もうそんな時間?

内山:それじゃ続きはまた来週ということで。



つづく

 かめまろちゃんネル vol.69
今回はついに、あの亀麿君の弟君の全貌が明かされます。
これまで、亀麿君の陰に隠れるかのように、その存在が希薄だった弟君でしたが、実は彼こそが極めて重要な人物だったのです。そして、しっかりと歴史にも名を残していたのです!
というのは、内山さんの緻密な考察による推測なのですが、これがまぁ、見事に筋が通ってるというか、しごくまっとうに行き着く結論ではないか?と思われるような、素晴らしい推察なのであります。
さささ、前口上はこれくらいにして、まずはお聞き下さい。そして、何か感じることがございましたなら、ぜひ、事務局までメールを頂けたなら幸いです。まったく無反応っつーのは非常に寂しい。

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加藤:
はい皆様今晩は。先週はですね。亀麿様ご一行、男の子二人。これが二手に別れて逃げたのはないか? 亀麿君は陸路を、そして弟君は海路を使ったのではないか?というところまできました。

藤原:
私はもう大興奮でですね。目からウロコが大量に落ちたような気がします。


加藤:
あぁ、いいですねぇ。はい。ということで今夜はその続き!内山さんお願いします。


内山:
はい。実は藤原さんから分厚い太平記をお借りしたんですよね。


藤原:
えぇ、あの時代のことといえばもう、太平記しかないんですよね。これしか残ってないから・・・。

内山:
それでですね。太平記によりますと、足利尊氏が京都に侵攻してるんですよ。これが建武2年、1335年のことです。で、太平記によればこの時、公家、武士、さらに身分の低い人たちまですべて京都から逃げたと書かれています。


加藤:
へぇ?!


藤原:
この時代ですから、全員殺されると言われたわけですね。

内山:
えぇ。それでも足利尊氏は一介の武将ですから、とにかく貴族を後ろ盾にしなければ大義名分が立たないわけですよ。で、ある貴族に目をつけていて、その貴族を後醍醐天皇の後釜にしようともくろんでいたわけですけど、いざ京都に入ってみると、その後釜にしようと思っていた貴族までがみんな逃げてしまっていたわけです。もう、どうにもならない(笑)。


加藤:
すごいねぇ?。ドッキリカメラみたいだね。


内山:
ただ、まぁ、後醍醐天皇は貴族のために政治をやったわけですから、そしてそれに反旗を翻したのが足利尊氏ですから。当然、貴族は皆、目の敵にされていると思ってもしょうがないわけですよ。
それでね。亀麿様ご一行もこの時期に京都を捨てたとなると、1335年ですから、1341年に金田一というのはちゃんと辻褄が合うわけなんです。


加藤:
ほほぉ。いいですか?皆さん。1335年ですよ。で、1341年ということは?差し引きするとちょうど亀麿様の年齢と・・・。


内山:
えぇ、まぁまぁ、そう先を急がないでください。

加藤:
あ、そうね。ごめんなちゃい。

藤原:
ごめんなちゃいって・・・(笑)。


内山:
それで、1341年、藤原彦左衛門繁春の代に金田一に移住して五日市家の初代になったと。で、2才違いの弟がいたわけですから、1335年には少なくとも亀麿様は2才を越えていたわけですよね。ということは、1341年には8才になってる。まぁ700年も前のことですから、6才も8才もそれほどの違いはないのかもしれませんが・・・。ただ、亀麿様が2才で逃げたとなると弟君は生まれたばかりですよね。
だとすると、いくらなんでも生まれたばかりの乳飲み子を抱えて何年間にも渡る逃避行をするというのは、どう考えても無理な話だと思うんです。そう考えると、亀麿様は4?5才になっていたのでは?と思えるわけです。
で、6才で亡くなったということは、逃げて1?2年くらいで亡くなったんだろうと。でなければ、金田一に着いたとすればその時はもう10才以上になっている計算になりますからね。

加藤:
あぁ?!


藤原:
すごい!


内山:
そういうことから、亀麿様は金田一にはたどり着けなかったということになります。ところで、亀麿というのは幼名なんですよね。そうすると弟君にも幼名があったはずです。で、ここでもう一度岩手県姓氏歴史大事典に戻りますと、1341年、藤原彦左衛門繁春の代に金田一小林に移住し・・・となっています。ですから、私はこの繁春という人がたぶん弟君だろう、と思います。

藤原:
わっ! うわぁ???!

内山:
つまり、幼名で言ってるんじゃなくて、弟が大きくなった時にこういう名前になったと・・・。


藤原:
パチパチパチ!すごい!だから最初から弟は歴史に名前が出てたんだ!


加藤:
繁春・・・という。


内山:
何も1341年に繁春という名前でなくても良いんですよね。後にこう名乗ったということだから、記述は藤原繁春になっていると考えられるわけです。


藤原:
うぁ?、すごい! これはものすごい展開になってきたぞ!


内山:
初めは(繁春が)亀麿様の父親かな?とも思ったんだけど、でも、弟じゃないかな?と・・・。


藤原:
いやぁ?、その時代に行ってみたいな?! 先週に引き続き流れがスムーズでゴリ押しがなくて、すごく自然につながってきますよね。

加藤:
そうだよね?。一つひとつが筋道立っているというか


藤原:
そう考えると、金田一に移住した弟さんは8?9才でしょう。で、元服が15才としたら、もう幼名を残す必要はないわけですからね。亀麿様は亀麿という名前の時に亡くなっているから亀麿様なわけで、弟君は大人になって繁春を名乗ったんだからその名前しか残っていないんですね。これはね?。盲点ですね、絶対! というか、これって五日市家にとって良くない話かな?

内山:
でもこれは洋さんに聞いた
けでもない、あくまでも私の推測ですからね。

加藤:
この物語はフィクションです。内山さんの妄想です。


内山藤原:
あはははははは!

加藤:
それじゃぁ、亀麿様はどこで亡くなったの?という素朴な疑問が出て来るよね?

内山:
ん?、そうなりますよね。確かに手詰まり感はありますよ。

藤原:
となるとやはり先々代の栄一さんが話していた、「亀麿様は殺されたという話しですよ」というのがね? その一言がものすごく重くなってきますよね。

内山:
いや、私もね。その線が強いんじゃないかな?って思ってるんですよ。
そうなってくると、会津若松で二手に別れてるわけですから、米沢街道を通って山形へ向かうはずだったのが、山形へは到着してないんじゃないかな?
と。なぜなら、山形へ入ったらもう南朝方の支配下なので安全圏ですから。そうすると、山形の手前・・・までですよね。


藤原:
おぉ?!来たぞ来たぞ!


内山:
だから、まず間違いなく(亡くなったのは)福島ですよ。

藤原:
いやぁ?・・・・。これはね?。実はいろんなルートからの話で、亡くなったのは福島ではないか?というのがね? あったんですよね、内山さん。

内山:
はい(笑)。あったんです。だけど初めは、いや、そんなはずはない!と。思ってたんですよ。でも、こうやって何度も調べ直してくると、どうしても福島にたどり着いてしまうんですよ。


加藤:
それはすごいですね?! でも、だから今すぐ福島へ調べに行きたくても行けなくなってしまいましたからね?。


内山:
そうなんですよ。直前まで計画を立てていたんだけど、地震で・・・。

藤:
それはもう、これ以上詮索してはいけないという啓示なのかもね?

内山:
いや、それでね。2?3週間前にちょっと眉唾な話があるんだと言いましたが、来週あたりからその話を詳しくお伝えしようかなと思うんです。

加藤:
思うんですけども、残念ながら今週はここまでということで。



つづく
 かめまろちゃんネル vol.70
皆様今晩は。今宵は本当に不可思議なる世界へ皆様をお連れいたします。水先案内人はご存じ、ちょっと変なおじさんこと、内山さんと、巨体コンビ=加藤&藤原がお相手いたします。「不思議」な話って一体どんなこと?とお思いでしょう。それはズバリ、亀麿様ご一行の逃避行に、一緒に行動していたという方の「体験談」です。つまり、その方は700年前に亀麿様をお守りしてきた家来の一人なのです。さぁさぁさぁ、興味津々でしょ? それでは、さっそくお聞きください♪
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加藤:
はい。1週間首を長くしてお待ちだったのではないでしょうか。亀麿様の足跡を探るということで、お話をしております。先週は、金田一にたどり着いた藤原彦左衛門繁春が実は亀麿君の弟君ではないか?と。そして亀麿君は福島で殺されたのではないか?というところまで話がきました。


藤原:
その福島で殺されたという話は、実は内山さんの推察とは全然別のところから、突然降って湧いてきたんですよね。

内山:
えぇ、そうですよね。


加藤:
ただ、まぁ、そのお話というのが眉唾っぽいといえば眉唾っぽいので、まぁ、信じられないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが・・・。

藤原:
はい。では気になるその詳しい話は、CMの後で!


内山:
あはははは!


加藤:
では、さっそく続きを聞かせてもらいましょう。

内山:
実はですね。亀麿様の逃避行を見たと言う方がいらっしゃるんです。それは皆さんもよくご存じの方なんですが。(旧亀麿会の方)まぁ、私が座敷わらしを見たのと同じように、その状況を見ていた方なんです。なんていえば良いのか、夢を見るんじゃなくて、
覚醒した状態で見るんです。私も覚醒した状態で座敷わらしを何度も見ていますからね。それと同じなんですよ。

藤原:
まるで映画を観ているような感覚で、そのシーンを見ているんですよね。

内山:
えぇ、そうです。それで、「見てきたんですよ」というのを、最初、人から聞いた時に、私は全然信じられなかったんです。なんかもう、ホントに眉唾もんだなぁと。何を言ってるんだ、と思っていたんです。

藤原:
それ、実は私が内山さんにお話したんだけど、全然信じてなかったですもんね。

内山:
えぇ。でもよく考えてみたら、自分も何度も座敷わらしに会ってるんだからねぇ。自分が見えないからって人にも見えないっていうわけじゃないですからね。その人が逃避行を見てきたと言うんだから、じゃぁ話を聞いてみようかな?と。

加藤:
はいはいはい。

内山:
で、話を聞いて、質問をしてみました。そしたら、まるでその人自身がその場にいたかのように、はっきりとした答えが返ってくるんです。
それで、その方には大変失礼な言い方なんですけど、その方は南北朝の歴史的な事実や背景、それから地理、またその時代の城の形状であるとか、その時代の特定の地区に住む人々の仕事とか、そういうさまざまなことについてはまったく無知な方なんです。

藤原:
あぁ、無知無知。言い切っても良いと思います(笑)。


内山:
いや、我々だって南北朝時代のことなんて何も知りませんでしたからね。

加藤:
そうですよね。歴史的なことがあったとしても詳しくは分かるわけがないですよね。

内山:
しかも、その方は福島は一度も行ったことがないんですよ。だからね?。南北朝のことも福島のことも、まったく知らない。無知な人なんですよ。

藤原:
あはははは。言ってるし。

内山:
いやいや、我々だってそうなんですから。まず、そのあたりのことをお断りしておきますね。で、その方の話を要約すると、まず最初に見たシーンは、武士が集まって協議をしている、と。そんなに大人数ではなかった。場所は京都だったと。話し合っているのは、逃げるべきか、戦うべきか、ケンケンガクガクの協議をしていた、と。

加藤:
ふぅ?ん・・・・。


内山:
で、最終的に、お家を守るために逃げることを決断する。そして次に見たのは逃避行の途中。まず、お城がいくつか見えたと。それから、海と間違うような湖が見えたと。その湖の名は猪苗代湖だと。そこでもう福島が出てきましたね。それから高い山が見えたと。山の名前は磐梯山。


藤原:
会津磐梯山ですね。


内山:
そう。それから、庄屋さんらしき家に匿ってもらっているシーンが見えたと。で、その場所は「原」と呼ばれる場所だったと。で、「あの山を越えると南部は近いのに・・・」という話し声が聞こえたそうです。すぐ目の前には切り立った山があったそうです。


藤原:
リアルですね! これはホントに。


内山:
そして次に、最後に見えたシーン。亀麿様の埋葬の様子だったそうです。
ちょっとゾクゾクしますね。で、庄屋さんらしき家で亡くなったと。風呂桶のような棺桶に入れて、小高いところに埋葬した、と。住民数名が手伝ってくれた。同行者も数名いた・・・。というのを見てるんですよ。


加藤:
はぁ?・・・・


藤原:
でもその時に、その人もはっきりしてないみたいなのが、死因は何だったか?ということが語られてないですよね?

内山:
そうですね。病死なのか殺されたのか、その部分は見えてなくて、埋葬だけが見えたらしいです。


藤原:
そこに一つ疑問が残るけども・・・ものすごいことになって来ましたね。

内山:
それで、その話を聞いて、その方にいくつか質問をしたんですよ。まず、武士が
協議してて逃げることを決めた、その武士集団の名前、または大将の名前はなんというのか?と聞いたんですよ。そうしたら長谷川氏だと。
それで長谷川氏というのを調べてみました。そうすると、長谷川氏というのは奈良発祥の豪族なんですね。それで、中臣氏(なかとみうじ)の家系なんですよ。中臣というと?中臣の・・・?


加藤:
鎌足。中臣鎌足ですね。名前くらいは知ってます。

藤原:
で、後(のち)の?


加藤:
・・・征夷大将軍?

藤原:
いや、後の藤原鎌足だよ。


内山:
そう。中臣鎌足が大化の改新で大手柄を立てて、死んだ後に藤原の姓をもらったんですね。その中臣家の家系なんですよ。長谷川氏というのはね。それから、逃げることを決めたといったけど、その決断をしたのは誰か?と聞いたら、「頭領です」と。まぁ、頭領の名前までは分からなかったですけどね。それから、逃げてる最中にお城が見えたというんですよ。それで、どんなお城だったか聞いたんです。そしたらね。この方は、「今のお城とは違う。土塁を盛って浅い堀を掘っている。そして木の柵で廻りを囲んでいる中に、平屋の家がある」と。
ようするに中世の典型的なお城なんです。

藤原
:はは?、平屋なんですね?


内山:
そうそう、お城っていうと大阪城とかのイメージがあるでしょ? でも、その人にお城の形を聞いたらそう言うわけです。


藤原:
絶対あの人はお勉強してるとかじゃないよね。調べて言ってるわけないもんね。

内山:
そうそう、こんなことを知ってる人なんてそうそういないですよ。私も八戸にある中世のお城(復元)を見学したことがあるんだけど、やっぱり、この通りなんです。大きな家がどーんとあるわけじゃなくて、いくつもの平屋が寄り集まっている感じのね。
で、その人はお城が見えたと言ってる。そのお城はこれですから、普通、そんな平屋を見てお城だなんて思いもしないですよね?

藤原:
そうだよね。それをお城って言うわけがない。


内山:
ですよね。それがいくつか見えたと言うんです。だから、当時大きな山城があったって言いましたよね? そういう山城の麓に小さなこういう平屋の出城がいくつもあったんだと思うんだけど、それをたぶん見てるんだと思うんです。

藤原:
ものすごいリアルな話ですよね?・・・


内山:
そうなんですよ。で、次にどうして磐梯山と猪苗代湖だと分かったのかと。そうしたら、逃避行の一行が地元の人に聞いていたんだと。それを映画のように見ているわけですよ。だからこの人は磐梯山と猪苗代湖だと分かったんだそうです。

藤原:
ん?。で?で?で?


内山:
それで次に質問しました。庄屋さんらしき家に匿われていたと。どうして庄屋さんだとわかったの?と。そうしたら、廻りの家より大きいし、住民に指示を出していたから、と。


藤原:
ほぉ?。とっても明快ですな?。

内山:
それからもう一つ。庄屋さんの家のあるところは、「原」と呼ばれる場所だと。その村の名前は何なんだ?と。そしたらその人はこう言いました。「原と呼ばれている場所で、村ではない」と。つまり、集落なんですよ。今の村とか町というもんじゃなくて、人が集まって住んでるだけの集落ですね。で、ちょっと調べてみたんですよ。
裏磐梯の山岳部には、木地師たち、これは木を切り出してお椀なんかを作る人ですね。その木地師たちが住んでいた。そして自分たちの住んでいる場所のことを「原」と呼んでたんですよ。


藤原:
おぉ?! パチパチパチ(拍手)。


内山:
それがね。歴史的事実としてあるんですよ。それをこの人はね。「原」と呼ばれる場所だと言ってるんですよ。


加藤:
ウゲェ?! 絶対知らないよ?、この人そんなこと・・・。


内山:
そうそう、私だってまったく知らなかったですからね。


藤原:
地名・・・っていうことじゃないんですよね?

内山:
地名という概念すらなかったでしょうね。ただ、平らなところだから「原」だと呼んでただけでしょう。

藤原:
まぁ、山は山と呼んでるのと同じという事でしょ? いやぁ、これは・・すごいですね。


内山:
それでね。その住んでる原と呼ばれるところの近くに何があるか聞いたんですよ。それは場所の特定をしたくて聞いてみたんです。


加藤:
と・・・言うところで?

藤原:
あれ? あれあれあれ? そうなの?


加藤:
その、「原」と呼ばれる場所の近くに何があるか?という質問の答えは・・・・
また来週!

つづく

 かめまろちゃんネル vol.71

今宵は、亀麿君の足跡をたどる不思議なお話の最終章突入でございます。
先週お話した、不思議な体験をされた方のお話=亀麿君の逃避行に同行したという方の体験談は、さらに微に入り細にわたり、恐ろしいほど史実に符号していきます。はたして我々はこんなことをして良いのだろうか?五日市家に伝わる伝承とは、あまりにもかけ離れた「史実」・・・。
しかし、この話を単なる空想話と一笑に付すことはできません。なぜなら、あまりにも具体的であり、しかもそのすべてが史実に沿っているからです。
さぁ、今夜はあなたも我々と一緒に、700年前の東北路へと旅立ちましょう。
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加藤:
さぁ、どうしましょうね?、この佳境っぷり(笑)。先週は、とある方に内山さんが質問をした、と。そのとある方というのは、なんと亀麿様の逃避行を見たという方でしてね。そして内山さんが、「原というところには何があるか?」という質問をしたところで先週は時間切れとなってしまいました。


内山:
えぇ、皆さん期待されているようですが、大した答えではなかったんですよ。ただ、小さな沼がある、と。でもね、この小さい沼というのは結構ヒントになったんです。というのはですね。南北朝時代の木地師の集落というのをちょっと調べてみたんです。そしたら、記録に残っている中に「桧木谷地」という所があって、谷地というのは、ジメジメした場所のことなんです。だから、小さな沼があるということは、完全に湿地帯なわけですよね。で、そこに木地師たちの集落があったと。で、沼の名前は?と聞いたら、それはわからないということでした。


藤原:
小さな沼ということでもあるし、とにかく村の名前すらない時代のことだから、小さい沼に名前がないのは当然かもしれないですよね。


内山:
えぇ。それに「原」というのはたくさんあったみたいなんですよ。平らなところはみんな「原」と呼んでたみたいですから。それで、その方に「住んでいる人たちはどんな仕事をしていたか?」と聞いたら、「木を削って、お椀のようなものを作っていた」と言うんですよ! 竹を編んでいる人もいると!


藤原:
すごい!パチパチパチ。もう拍手喝采しかありませんな。

加藤:
ふぅ??????ん!

内山:
それはもう、間違いなく木地師ですよね。木地師の仕事ですよね!


加藤:
絶対、あの人知らないよ?そんなこと?(笑)!

内山:
いや?、我々だって分からないですよ!


藤原:
しかし、そこまで具体的に記憶が覚えているくらい、しっかりと見てきているというのは、すごいことですよね。


内山:
はい。それでね。だいたい調べてこの辺だなぁという目星をつけて、後日また質問してみたんですよ。その場所は現在、水没してるんじゃないか?って。


藤原:
内山さんがそう質問したのね? もう場所の見当がついてるから?

内山:
えぇ、そうです。そしたら、こういう答えが返ってきました。
「お世話になった庄屋さんのお家があったところは、現在は水没している」・・・と。

藤原:
うぁ???! ジャ???ン!!


内山:
それで、裏磐梯には水没したり埋まったりした集落がいくつもあるんで
すね。その中で、この人が見たという風景を語った部分、「この山を越えたらすぐ南部(米沢)なのに」という言葉。そして切り立った山が見えると。っていうことは、山越えする場所の近くだと。そして今は水没していると。で、木地師たちの集落がある場所だと。それらを合わせて考察すると、裏磐梯の旧桧原村ではないだろうか?と、見当をつけたんです。


藤原:
ほほぉ?


内山:
それと、では亀麿様を埋葬した場所はどうなっているか?と、また聞いてみたんです。そうしたら、「そこは小高い場所になっているので、水没はしていない」と言うんです!


藤原:
ということは、今現在も、行けば(どこかに)ある、ということですね?

内山:
そうですね。どこかにまだ埋まっているということですよね。


藤原:
ほほぉ??


内山:
で、もう結論めいたことを言ってしまいましたが、諸々の状況からこの人が見てるのは南北朝時代に間違いないと。で、おそらくこの人は、亀麿様ご一行を見てると言うんだから、間違いなくそれを見ているんだろう、と。そして、猪苗代湖、磐梯山、木地師たちの集落、「原」と呼ばれるところ、それから山を越えると南部が近い、(今は)水没している・・・、ということで、そこは桧原湖に水没した旧桧原村ではないかと思われるわけです。


藤原:
はぁ??。すごいですな?! 今は湖の底にあるっていうことですね。


内山:
この桧原湖というのは裏磐梯でも大きな湖なんですけど、調べてみたら湖の北西側に村があったらしい。そして、今はもうないんですけど、その村のすぐ先に桧原峠がある。江戸時代にはこの桧原村は宿場町として栄えたところですね。
で、この桧原湖の北西側に埋葬されているん
ではないか、と・・・。

加藤:
小高いところだからね。

藤原:
こりゃ?内山さん、一度行ってこないとダメですね(笑)。


内山:
(フリを無視して)話を先に進めますよ。前に、武士集団の名前は?と聞いた時に、「長谷川氏」と言ってましたよね。これは中臣氏の家系だと言いました。中臣氏は藤原姓を名乗っています。それがね?、面白いんですよ(と、資料を拡げつつ)ほら、中臣氏の支流分流に、武家の長谷川氏がある。それで、どうして長谷川氏が藤原なんだ?と。ず?っと分からなかったんだけど、ここに、中臣鎌足の子孫に長谷川氏がいると。それから藤原氏の一族というのは、奈良時代から平安時代までは、藤原を称したけども、鎌倉時代からは姓の藤原ではなくて家名を名乗り、公式な文書以外では藤原を名乗らなかった。つまり、簡単なことを言っちゃうと、例えば、福島に田村家という南朝方の武将がいるんだけど、この田村家のことをちょっと読みますと、「福島は、藤原姓の田村家が支配している」とあるんです。


藤原:
はぁ??、なるほどね。

内山:
ん~。だから、田村家なんだけど、名字は藤原なんです。何度も言うけど、この藤原っていうのは、家名を名乗って公式な文書以外では藤原と名乗らなかった・・・。だから長谷川氏という武将が家を守るために逃げて来たというんだけど、ここも中臣氏の家系だから藤原なんですよ。だけど、家名として長谷川を名乗っていたということです。名字は藤原だけどね。


藤原:
そう、藤原氏というのはものすごく複雑な事情があって、実は今現在でも藤原の姓を伏せて別の姓を名乗っている、まぁ、今の日本の中心にある大財閥なんかはみんな藤原姓なんですよ、実は。だからこの時代もそうだというのはすごくよく分かります。


内山:
だってね。西暦500年代頃から、藤原鎌足から延々と続く家柄なわけで、ものすごく枝分かれしてるんだけども、それなりに大した家柄なわけですよ。

藤原:
ある意味、日本を作った家柄だからね。

加藤:
へぇ?。ふぅ?ん。


内山:
で、話を進めますよ。その逃げて来た長谷川氏。中臣家の家系だから名字は藤原です。つまり、藤原彦左衛門繁春と合致しますよね。


加藤:
藤原姓を名乗ったのはしごく当然なんだよという・・・。


藤原:
結局、南部藩に来て、大手を振って藤原姓を名乗れるようになったとも言えますよね。


内山:
そうですね。それからもう一つ。ちょっと遡りますが、五日市家があるのは長川でしたよね。で、屋号も長川だったと。「長谷川」から「谷」をとって長川とした・・・というのは、これはちょっと考え過ぎでしょうか?

藤原:
いやぁ、それはあり得ると思う。

内山:
だって、代々藤原の家系は、屋号を名乗ってたんですよ。そう考えるとね?。それに今の緑風荘があるところ、おそらく当時は地名なんてなかったでしょうから、長川という屋号をそのまま地名にしたという風にも考えられますよね。


藤原:
どれもみな、歴史のあとに名前が付いてきたというわけかぁ。


内山:
そんなことで、初めは眉唾ものかと思った話なんですけど、結構ね。

加藤:
意外や意外。


藤原:
史実と擦り合わせてみると、どれもこれも符合しすぎるくらい符合する、と。だって、内山さんでさえ知らないようなこともね?いっぱいあって・・。


内山:
いやぁホントに、聞いててゾッとしましたもん。


藤原:
すごいですね?。あの人、見直さなくちゃ!ね?


加藤:
ムリ。


藤原:
あ、そうかい?

加藤:
はい。ということで、まぁ、いろいろありましたけども、片や内山さんの推測と、片や眉唾くさい話と。信じるも信じないもあなた次第です。


藤原:
そうですね。その人その人のご判断ですね。


内山:
こうやって考えると、緑風荘に出るといわれている座敷わらし、まぁ、亀麿様は、我が一族を末代まで守ると言ったわけですけど、何も金田一で亡くなったということでなくても良いんですよね。どこで亡くなろうと、五日市
家を守るためにいるわけですから。

藤原:
そうだよね。五日市家は自分の弟の一族なんだから。


内山:
お家大事!というものがありますからね。


加藤:
弟を守る、イコール家を守るってことだものね。・・・


つづく

 かめまろちゃんネル vol.72
先週までの大胆な推察に、早くも話題騒然となって....おりませんが、いったいどうしたことでしょう?などということは特に気にせず、今宵も先週に続き、亀麿君の足跡をたどりましょう。さて、伝承話というものは、古い話ほど事実に近い(ような)気がします。緑風荘ご当主・五日市洋氏から伝え聞いた伝承よりは先代のお話、先代のお話よりは先々代のお話・・・という具合に、より真実に近いのは先々代のお話では?と推察する次第です。そこで我々は、先々代のお話を元に、またまた大胆な仮説を考えました。今夜はそんな3人の仮説をそれぞれ発表してまいります。どんな話が飛び出すか? さっそくお聞きくださいまし。
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加藤:
はい、皆様今晩は。今日からは「亀麿様の足跡をたどる・シーズン2」でございます。

内山:
はい。それであの、お二人に宿題を出しておきましたよね?

藤原:はい。

加藤:
皆さんあのね。内山さんからですね。メールが届きましてですね。亀麿様は誰に殺されたんだと思う?なんていうね。宿題を出されていたんですよ。

内山:
そうなんですね?。それで、まぁ、私は亀麿様殺害説という立場に立ってですね。言い伝えというのは、より古い人の話を尊重した方が良い、と。例えば当代よりもやはり先々代のお話の方が古いですから。

で、先々代ははっきりと殺されたんだと言ってましたからね。たぶん言い伝えではそうだったのでしょう。ただ、旅館業としては好ましくないので、ちょっとすり替わったのかな、と。
そこで、亀麿様殺害説に立って、どこで、誰にいつ頃殺されたのか?というのを宿題に出しておいたわけなんですけどね。三人で三様の考えを・・・

藤原:
いや、三人三様と言うけど、加藤君と話したんですよ。これは間違いなく内山さんは確固たる答えを見つけやがったな?と(笑)。

内山:あぁ?、するどいですね?(笑)。

加藤:そりゃ?そうでしょう!

藤原:で、あぁ?お二人はそんな程度ですか?とか言うんでしょ?

内山:
いやいやいや、そんなことは言いませんけどね。じゃ、お二人の答えをね。まず、どこで殺されたのか?と。

加藤:
えっと。じゃ、まずボクが考えたのはですね。てか、考えても考えても分かんねぇもん。で、いよいよ磐梯山を越えようとする時に、えぇと、裏切り者がいたんじゃないかな?と。

藤原:おぉ?!

内山:ほぉ?、それは面白いな?。

加藤:
ただ、だからそれは誰か?っていうことはなくて、誰かが北朝方に寝返るために、亀麿君を殺害した・・・・かな?と。

藤原:いや?、なかなか良い視点ですよね?

内山:ストーリーとしては面白いですよね。

加藤:でも、こんなストーリーって映画とか小説な感じじゃない?

藤原:いやいや。事実は小説より奇なり。

内山:あの頃の時代ならザラにあった話しですよね。そういうのは。

加藤:
ただ、これには矛盾があって、もし北朝方に寝返るために殺害したのであれば、その亡骸なり首なりを持って北朝方へ行くべきなのに、埋葬したっていうでしょ? 埋葬したら首とか・・・ねぇ? そこが大きな矛盾かなぁと。

内山:
謀叛者が返り討ちにあった、というのはどう? 殺害はしたけど、亀麿様の取り巻きに返り討ちにあってしまった、と。

加藤:あぁ?、なるほど。

内山:で、いつ頃だと思う?

加藤:へ? えっと・・・1335年か6年・・・かな?

内山:で、何月頃?

加藤:へ? へ?

藤原:わっ やだ! このおじさんしつこい!

加藤:
亡骸を埋めたっていうんだから、冬ではないですよね。凍ってたら埋められないし。なんだろ? なんとなく新緑の頃? 4月か5月とか?

内山:なるほど。まぁ、話としてはそれなりに面白いですよね

藤原:
季節的なことで言えば、弟君が海路を使ったわけだから、冬とか台風の季節では、海が荒れて航海できないからね?。

内山:そうそう! そうなんですよね?!

藤原:
それと、兄弟それぞれはほぼ同じ時期に旅立ったと思うんですよ。片方だけ出発してもう片方がまだ滞在してるとなると経済的なこともあるだろうし、家来も分散しちゃうわけだから。

内山:
そうですね。会津若松までは間違いなく一緒に来たとは思うんですよね

藤原:
そうそう。だから加藤君の言う季節的なところは、間違いないと思うよ。これで決まりましたね! そういうことですよ!

内山:あら? 藤原さんの話はどうしたの?

加藤:はい、じゃ、藤原さんの話。何月だと思う?

藤原:え? まったくその通りで、5月か6月・・・

加藤:誰に殺されたと思う?

藤原:へ? あのね・・・

加藤:相手は?

藤原:
・・・・ 自分が終わったもんだからって(笑)。昨日聞いた時には全然変なこと言ってたくせに・・・

加藤:いいんだって!どうせ(話を)つまむんだから!

藤原:
つままねぇよ! でね。実は私もこれ!といったことはないんですよ。ただ、真っ先に考えついたのは、北朝だ南朝だとかじゃなくて、先に弟君を送り出してから、自分が出発するまでの数日の間にね。ごくわずかのお伴の人と山遊びをしてる時に、山賊に襲われたのではないか?と思ったんです。

というのは、家来たちが一緒だったとは考えにくいんですよ。なぜなら、その亀麿君の逃避行を見ていたという、その方がですね。埋葬シーンを見ていたと。その方は死んでなかったということですよね。たぶんね。その方は階級で言うと下級武士だと思うんです。
もし亀麿君が襲われた時、そばにいたならその方は真っ先に矢面に立つべき立場なのに、殺されずに埋葬まで立ち会っている。ということは、末端の家来を連れずに乳母とかそういうお世話をする人たちだけがそばにいたんではないかな?と。
山賊にとっては、北朝だ南朝だというゴタゴタは隠れ蓑としては非常に都合が良いと思うんですよ。で、そういう山賊は、相手を殺して金品を奪えば、何も首チョンパする必要なんてないわけだからね。それに、埋葬された時に、特に首がなかったとかね?そういう話は出て来なかった。遺体にはちゃんと首があったと思うんです。
それともう一つ。言い伝えにあるように、亀麿君は亡くなる時に、「一族を末代まで我が守ろうぞ」と言って亡くなっている。ということは、その襲われた場所で完全に息の根を止められたのではなくて、瀕死の状態でその庄屋さんのお家に戻ってきた・・・。という風に考えると、やはり山賊に襲われたところを、家来たちに助けられたんだけど、結局は亡くなってしまったのではないか・・・というのが私の考えです。

内山:なぁるほどね?。加藤さんはどう思います?

加藤:いや、ボクもそれを聞いた時に、なるほど!と思ったんですよね。

内山:じゃぁ、次は私の番ですね。

加藤:あ、正解の方ですね。

内山:
え?正解?(笑) 私が言ってることが正解じゃなくてね? いや、さすがに藤原さん、するどいですね。

加藤:お? おぉ??!

藤原:いやいやいや。ヨイショしたって、内山さんの方が正しいんでしょ?

内山:
違う違う。どこで襲われたか?っていうのは、桧木谷地のとなりに蘭(あららぎ)峠というところがあるんです。高低差はそんなにないんだけど、大塩という宿場と桧原宿を結ぶ峠で、なんと山賊で有名なところだったんです。

加藤:へぇ??????!!

内山:
で、山賊というのは大勢で人を襲うわけですよ。そこでまぁ、小さい子ですから手傷を負ったと。でも、同行していたのは侍ですから。殺されるまではいかずに、亀麿様を助けてなんとか逃げ帰ったと。そして桧原の庄屋の家にやっかいになったというふうに思ったんです。

藤原:ほら! 私の考えた通りじゃないですか!ほぼ!

内山:
そう。ほとんどそうですよね?。ここはホントに山賊で有名なところなんですよ。それで、戦国時代になって、たくさん旅人が通るから、そこを治めるお侍が兵隊を派遣し、山賊を退治したそうなんです。

藤原:あぁ、そんなに。もう、山賊通りなんだ。

内山:山賊通りなんですよ、ここ。

藤原:いや??、いいところに目をつけたね?藤原さんは(笑)。

内山:
はい。いや、私はね?暇だし、何かないか?と思って、こういうのを見つけたのですが、やっぱり藤原さん、大したもんですよ。

藤原:
まぁ、山賊は人を殺すのが目的じゃないからね。金品を奪うのが目的なわけだから。

加藤:あ、そっか。そうだよね。

内山:
それでね。じゃ?いつ頃なのか?ということなんですが。足利尊氏が京都に攻め入ったのは1月なんですよ。ですから、12月か1月には逃避行を始めてるわけなんですよ。それで、冬ですからね。小さい子も連れているし。だから京都の近辺で何ヶ月か居たんじゃないかと。隠れて。そしてその後に五日市に出て、たぶん五日市には暖かくなる時期まで居たと思うんですよ。それでないと旅はできませんからね。

で、五日市に居たというのは、まぁ、言い伝えでは五日市に居たから五日市という姓なんだよというのがありますね。それからもう一つ。五日市という所は南北朝時代の頃からものすごくお寺が建てられていた。それも臨済宗なんですよ。この臨済宗というのは、まぁ、禅宗なんですけど、公家とか武家の間に広まった宗派なんです。

藤原:はぁ??!あぁ??!なるほど!はいはい。

内山:
もちろん京都にもあるんですけど、なぜか五日市にはものすごく建てられた。おまけに、南北朝時代の落人伝説がたくさんあるんです。ここには。

藤原:あぁ?、落人伝説ね?!

内山:結局、匿ってくれるようなお寺やなんかがあったわけです。

藤原:
いわゆる、この関東地区の公家とか貴族たちが身を守るためにどこかに集中すると思うんですよ。それがたまたま五日市という場所であって、そのためのお寺だったんじゃないかな?と思うんですけどね?

内山:
そうなんでしょうね、たぶん。それで五日市におそらく6月頃まで居たんだろうと。というのは、藤原さんも言ってたように、秋になれば海は荒れるだろうし、陸路の方では桧原峠がね。ここは標高1100メートルくらいあるんですよ。

藤原:じゃぁ、冬になったら全然ダメだね。

内山:
ダメですね。ここの桧原湖でさえ800メートルありますから。ということは、夏くらい。遅くても秋の始めの頃には(山を)越えなければいけない。だからまぁ、6月頃に出発したと。となると亡くなったのは6月から8月くらいのあいだではないか?となるわけです。

藤原:いや?、藤原さん90点くらいもらえるんじゃない?

内山:もらえますね?。

加藤:さすが! ということで、今週は・・

藤原:え? もう終わり? 早いな??!

加藤:
はい。ということで、みんなの予想はどうだったかな?
ではまた来週お会いいたしましょう。

 

 つづく 

かめまろちゃんネル vol.73 
さて、怒濤の展開を見せる「亀麿さまの足跡をたどる」お話ですが、今回は当時の地形や地域名などを検証してみました。といっても、きっちり資料をまとめてくださったのはいつものように「内山氏=うっちー」でございます。
亀麿さまが亡くなった(であろう)と思われる福島県の桧原宿。明治21年に磐梯山噴火で川がせき止められ、水没してしまったその集落のとある山間には、今もひっそりと亀麿さまの木桶の棺が眠っているのかもしれません。
700年前・・・、そこはどんな土地であったのか? そしていったい何が起こったのか? 歴史のロマンは謎のヴェールに包まれたまま、静かに水の底に沈んだままです。
さぁ、皆さんもご一緒に700年前の福島の旅をご堪能ください。


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加藤:
皆様今晩は。さて、先週は亀麿様殺害説について事務局3人の考えた説をそれぞれ発表してきたわけですが・・・。


内山:
はい。それにしても藤原さんの山賊説はすごかったですね。私は資料を調べて、桧原の手前に蘭峠というのがあって、山賊で有名なところだったというのを見つけたわけだけれど、何も調べないで山賊だ!と言ったあたりはさすがですよね?。

藤原:
ただ、米沢街道という古い街道ってね。古い街道には山賊がつきものだというだけのことなんですよ。名前もないような時代からある街道だって言うなら、それはもうねぇ、そこは絶対に人が通るわけだから、山賊が出るのは当然かと。

加藤:
ね? なんか自慢げでイヤな感じですね。はい。ということで藤原さんの自慢話はこのくらいにしといて、今週は亀麿様は桧原湖のあたりで殺されたということをふまえて、じゃぁ桧原湖ってどんなところ?というのを内山さんにお話してもらいましょう。

内山:
この桧原湖というのは、1888年(明治21年)の磐梯山の噴火で山が崩れてできた湖なんです。この噴火で当時の5村11集落が埋没してしまったと。これは、水に埋まったんじゃなくて、泥に埋まったらしいですね。


藤原:土石流ですね。

内山:
えぇ、そうです。それで477人の死者が出た、ということなんです。ところが、水没した桧原村では死者は出てないんですよ。これは、川がせき止められて水が徐々に入って来て、水没までに一ヶ月くらいかかったらしいんだけど、その間に村民はみな逃げることができたということなんです。

加藤:はぁ?、なるほど。

内山:
なんですけど、でもね。ここは実は知る人ぞ知る心霊スポットなんです。
なぜかというと、水が少なくなる渇水期に、水没した神社の鳥居だとか参道の石や、お墓が現れたりするらしいんですよ。まぁ、近隣では400人以上の人が亡くなっているわけですから、この場所で・・・という風にね。知らない人はここでたくさんの人が亡くなっているからって思うらしいんですよ。

加藤:あぁ、はいはい。

内山:
それでですね。このあたりはかなり前から小さな集落があったと。そこには木地師が住んでいたということなんだけど、ちょっと面白い資料を見つけたんです。隣村というか、隣の集落の大塩というところなんですけど、この記事を読むと、「木地師集落の原があった」という文章があります。
これは戦国時代頃の話なんですけど、この記事の最後のほうに、「この木地小屋の原には14人住んでいた」と。1660年頃とありますから、江戸時代の初めまでは、木地師が住んでいたところは原と呼ばれていたということな
んです。

藤原:
そう考えると、あの方が「原」と呼ばれる場所、と言った、その一言の重さはすごいですね。

内山:いやぁ?、すごいですね!

藤原:
その場所が、村でもなく地名でもない、ただ「原」と呼ばれてたという、その言いっぷりはホントにすごいですよ!


内山:
そうですよね。それで、今の桧原湖というのは磐梯朝日国立公園に指定されていて、レジャー施設やホテルも充実した観光スポットになっておりますので、まぁ、亀麿様崩御の地ということですから、ぜひ緑風荘ファンの方々にも一度行っていただきたいな、と。と言ってる私もまだ一度も行ったことがないんですけどね(笑)。


加藤:じゃぁ今度、内山会長と行くミステリーツアーというのをね。企画して。

内山:あはははは。

加藤:はい。ということで、福島良いとこ一度はおいで、という番組でございました。




(今回は短いので2本立て!!↓)

かめまろちゃんネル vol.74
岩手県姓氏歴史大事典によると、五日市家の先祖が金田一に移住したのは1341年のこと。当時は「五日市」という地名さえ、まだこの世に存在していなかった・・・。文献に初めて五日市という地名が現れたのは1574年でした。
そして、五日市家の墓碑に「五日市」と記されるのはさらに後の1700年頃であったと言われています。
今回は、その「五日市姓」の謎にスポットをあてて、いつもの3名のあ~だこ~だの論議が始まります。これまた、亀麿君のルーツを知る上で、決しておろそかにできない「大きな謎」の一つなのです。

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加藤:
内山さんに前から聞きたかったんですけど、1700年くらいまで五日市という名前が(五日市家には)出て来なかったと言ってましたよね? あれは、なんでなのか?ずっと気になってたんですよ。

内山:
えっと、前に話したのは、武蔵国の五日市に逃れたから、五日市を名乗ったと言いましたよね。ところが、この五日市という地名が文献に初めて出てくるのが1574年なんです。つまり、逃避行から230年も後になってからということですよね。
そして、五日市家が金田一に入植したのが1341年で、墓碑に五日市の姓が見えるのが1700年頃だと。ここでは350年近くもズレている。なぜ、350年も出てこないのか、それともう一つには、なぜ藤原を名乗らなかったのか?それでいろいろ調べてみました。藤原彦左衛門繁春という方が初代だということですが、この呼び方はちょっと違うんですよ。これは本当は、「藤原の、彦左衛門繁春」と読むんです。

藤原:あぁ?! そうか!

内山:
なんでもそうでしょ? 中臣の、鎌足。万葉集の柿本の、人麻呂とかね。
この藤原というのは本姓と呼ばれていて、氏(うじ)なんですよ。なので、名字ではないんです。今ここに藤原さんがいますけど、この藤原というのは名字なわけで、当時のことを語る時にどうも錯覚してしまうん
ですね。藤原の、というと藤原家の・・という家系を表しているんです。

加藤:え? 藤原の、秀次郎なんですか?

藤原:だから?!違うってば!

内山:
違います! もし、藤原の秀次郎となったら、藤原さんは私たちと話なんかしませんよ。高い場所に上がっている方になりますからね。だから、藤原の、彦左衛門繁春なんですから・・・。

藤原:藤原氏の、という但し書きみたいなもんですね。

内山:
そうそうそう。だから、鎌足の家系なんだよ、血筋なんだよという意味。それで、調べてみたら彦左衛門というのは通称なんですよ。


加藤:通称?

内山:
えぇ。だから、あだ名ともちょっと違うけど、まぁ、普段呼んでいる名前っていうことかな。そして、繁春というのが本名なんですよ。つまり、繁春という本名なんだけど、普段は彦左衛門と呼ばれているということなんですよ。
本来なら、例えばですけど、「藤原高橋彦左衛門繁春」という感じで、通称の前に名字が入るんですけど、明治時代まで本名を直接つなげることはなかったんです。

加藤:
ふんふん。内山さんが持って来たこの資料に書いてあるんだけど、
「武士の場合、名字を直接接続するのは通称であり、本名を直接つなげることは明治時代までなかった。本名を直接つなげる場合は、本姓に大してが通常であった」というわけですね。


内山:
はい。だから、藤原の繁春というのはいいんですよ。藤原氏の繁春という意味ですから・・・それでね、1341年に金田一に入ったってことは、これは入植してるんですよ。土地を貸すから開墾しなさいよと。そのかわり開墾したらその土地はお前にやるよと。ようするに開拓者ですよ。


藤原:武士だ、貴族だ、ということではなくて、いわゆる屯田兵だというわけですね。

内山:そうです。だからもう、この段階で平民になってたんですよ。

藤原:
ははぁ?、なるほど。ますます見えてくるのが、弟君の幼名は(記述が)無くてもいいんだということ・・・ですね。

内山:
はい。だから入植してからは平民ですから名字はなかったんです。で、屋号を名乗っていたのではないかと思うんです。長川という、ね。
そして9代目に長川に移り、っていうのがおそらく1700年頃。その頃に五日市という姓が墓碑に現れる・・・。つまり、江戸時代に名字を名乗っているんですね。
でも、それがよくわからなくてさらに調べてみました。そうしたらこれが出てきたんです。「江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字を名乗ることを許されるようになった」。
これがね。1700年頃なんですよ。だから、幕府から、お前は名字を名乗ってもいいよと言われた。


加藤:あんたは名主だから名字を名乗りなさい、と。

内山:
そうそう。で、考えたんでしょうね。でも当時は「藤原」というのは名乗れる名字ではないんですよね。というのも、「源平藤原」という3つの姓は適切な本姓とされ、朝廷に仕える時や、官位をもらう時にのみ使う姓であって、平民がおいそれと使える姓ではなかったんです。まぁ、屋号は長川というのを使っていたけども、屋号は屋号で大切なものだったから、じゃぁ名字は何にしようか?となった時に、言い伝えでは五日市でしばらくの間やっかいになっていたと。それじゃ五日市を名乗ろうか・・・という具合になったのではないか?と思うんですよね?。

藤原:
まぁ、辻褄は合いますよね。京都を逃げ出して、五日市で数ヶ月過ごして、まぁ、そこで何があったかわからないけども、一族にとっては忘れられない出来事があって、その地名を名字にしたと。

内山:
そうですね。言い伝えのあった場所はその頃には五日市という地名がついていたから、何ヶ月か世話になった土地の名をっていうようなね。

藤原:
ん??。きっとそこで命にもかかわるような大きな出来事があったのかもしれないですね。一族にとって。

加藤:あぁ、そうかも。

内山:
えぇ。だからまとめると、1700年頃までは名字はなかったけど、その頃から五日市姓を名乗り始めたということで、なんとなく説明がつくのかなぁという気がしますけどね。


藤原:
それで、最後にちょっと確認しておきたいんですけど、今まで語ってきたことは、五日市家に伝わるお話を否定しているのではなくて、言い伝えは一旦横に置いておいて、これはあくまでも我々3人が考えた推測のストーリーなんですよ、ということをね。初心に返って忘れないようにしなくては、と思ったものですから。

内山:そうです。あくまでも想像ですからね。我々の。

藤原:ですよね。

加藤:はい。ということで、お間違えなきように。それではまた来週。



つづく
かめまろちゃんネル vol.75

皆様、今晩は。今回のかめまろちゃんネルは、これまで2ヶ月近くかけてお話してきた、「亀麿さまの足跡をたどる推察」のまとめをお送りいたします。1335年、足利尊氏が京都に入るという報を受け、南朝方は大慌てで京都を脱出した。公家や貴族はもちろんのこと、武士や平民までこぞって逃げ出したという。その中に、幼き兄弟を擁護しつつ密かに南部藩に向かった一行があった・・・。
歴史に残るかすかな手がかりを元に、時には歴史書をひもとき、時には不思議な体験者の体験談を聞き、五日市家のご先祖である亀麿さまの、あまりにも短い六年間という生涯を垣間見ようとした我々は、ついに「これぞ真実!」と言えるような史実と符号する事柄を掴んだのです。さぁ、長くて短い亀麿物語の総括です。

どうぞ、お聞き下さいませ。


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加藤:
さて、今週は今までお話してきた「亀麿様物語」をまとめてみたいと思います。

内山:
はい。亀麿様というのは、武士集団の長谷川氏を名乗る藤原一族の息子だったのではないかと考えます。この亀麿様一行が逃避行を始めたのは1335年の12月から36年の1月頃ではないかと。なぜなら、足利尊氏が京都に侵攻してきたのが1月の10日過ぎなんですよ。

加藤:
え?・・・ってことは、12月から1月のほんの2ヶ月くらいの間にっていうこと?

藤原:
だって、情報が入って来るのはギリギリになってからだろうから、それから慌てて逃げたんだと思うよ。なんせ平民にいたるまでみんな京都から逃げ出したっていうんだから。

内山:
武士まで逃げたんですからね(笑)。で、子供を連れた逃避行ですから、おそらく京都の近くで3月くらいまで身を潜めていて、その後、五日市に出てお寺などにしばらく滞在したのではないかと。なぜなら、南北朝時代には貴族や公家の間で流行った臨済宗のお寺が多数あったところだからです。

加藤:で、その後、福島に入ったのが6月から8月頃ではないかと。

内山:
そうです。これも藤原さんが言っていたように、海路をとるにしても陸路をとるにしても、秋から冬にかけては厳しいんですよね。となると、まぁ、夏頃ではないかと。それで、会津若松で海路を選んだ弟君と別れて、亀麿様は陸路をとったのではないかと。

それで、桧木谷地手前の蘭(あららぎ)峠で山賊に襲われて亀麿様は負傷、同行者と桧木谷地まで逃げ延びたけれど、その集落の長の家で亡くなられたのではないかと。6才と言いますから、満5才の時であろうと。で、逝去された場所は今は水没(桧原湖に沈んだ旧桧原村)してますが、埋葬された場所は桧原湖の北西側、当時の村があったところの高台だということですから、今も水没せず、そこにあるのではないかと。
で、海路を使った弟君は秋田に流れ着いたと。それから6年後、金田一に入り、五日市家初代となる。この6年というのはね。言い伝えからするとすぐに金田一に入ってるように思われるけど、実際にはあちこち寄っていたと思うんですよ。それでやっと金田一に落ちついたのが6年後だということだと思うんですよ。

加藤:ふぅ?ん。

内山:
それで金田一に入った弟の名前は、藤原の、彦左衛門繁春。この時は平民になっていたから、長谷川氏から由来する長川を屋号として名乗り、名字はなかったと。それから、先週お話したように、1700年頃、江戸幕府の政策で平民の中でも、庄屋や名主など、特に許される旧家のものだけが名字を名乗ることを許された、ということで、言い伝えられてきた滞在地の五日市という地名を名字として名乗るようになった、ということになるわけですが、いかがでしょうか。

藤原:
はぁ?。長い長い時を経て、今ようやく、もしかしてこうではないか?という具体的な流れが見えてきましたね。

加藤:
そうですね。細い細い糸を寄り合わせて、やっと1本の糸が出来たという感じですよね。

内山:
いやぁ、ここまで調べるのにけっこう時間がかかったけど、楽しかったですね?。

藤原:
一つには、言い伝えというストーリーがあって、もう一つにはある方が見たという、逃避行の目撃談があって・・・。

内山:いやぁ?、あれは大きかったですね!

藤原:
ものすごいリアルでしたからね?(笑)。そしてもう一つ。本当の史実(真実)というものがある。亀麿君の話にはこの3つの柱があるんですよ。この3つの柱がそれぞれの時代でそれぞれに繋がっていかないといけないわけだけれど、そうしていったら、五日市家に伝わる言い伝えというのは、その流れからちょっとズレていた・・・。でも、もう一つの不思議体験の話は・・・。

内山:
そうそう、史実と合致するんですよね?! それこそ何度も言いますけど、木地師集落の原というのはね?、身体が震えましたからね!調べたら出て来るんですからね?!

藤原:もう、その一言であの方の話は真実だ!と思えちゃったもの。

加藤:城には見えない建物を城と言ったりね?。

藤原:
そして、当初は否定していた五日市家の本当の言い伝えであるところの、ご先祖は海を渡ってきた、というのもね。実は弟君が海路を使って来たんだという。弟君はまさしく五日市家の本当のご先祖ですからね。これらの符合の仕方は尋常じゃないですよね。これこそ「本当の真実」じゃないの?っていう・・・。もう、本当に感動しちゃったもの(笑)。

内山:
イヤ、本当にね。調べていて感動するくらいに面白かったですよ。見つけた時には。

藤原:これはもう、内山さんにしかできないことですよ。

内山:
いやいや。これはもう、趣味以外のなにものでもないですからね。ただね。こうやって、調べてみてね。こんなふうになるんだよって言うことが分かったからって、これがいったい何になるんだろう?って。いや、自己満足で全然かまわないんですけどね。

藤原:
でも私は、このことによって、亀麿様がこうして生きて来られたんだなぁっていう臨場感というか、現実的な存在として感じられるようになったので、すごくよかったなぁと思いますよ。

加藤:あぁ、なるほどね?。

藤原:
確かに内山さんがおっしゃったように、自己満足の世界なんだろうし、それでなんなの?って言われたら、ただ「ごめんなさい」っていうしかないよね(笑)。

内山:
ははははは。でも、こんな程度であれなんですけど、やり遂げたっていうかね。すごいスッキリしてるんですよ。ずっと気になっていた疑問が一つずつ検証できましたからね。

藤原:
私はまず最初に亀麿様の話を聞いた時にね? 6才で亡くなった亀麿様が五日市家のご先祖ですって言われてね。冗談言うなよって思ったんです。6才で亡くなったのに子供作ったのかよって(笑)。だって、ご先祖ということはそういうことでしょ? だからそこがもうすでにおかしい話だと思ったのよ。だけど、誰もそのことをおかしいとは言わないでしょ? 血筋はどうなってるの?って、誰も疑問に思わないところが変だな?と思ってた。でも、今回、弟が本当のご先祖だと分かって、ホントにスッキリしました。

内山:
まぁ、座敷わらしとして出て来るのは亀麿様だからね。どうしてもそっちが主役になりますからね。弟君じゃなくて。

藤原:いやぁ、今日の話も面白かったですね?。

内山:ところがね。実はもう一つ、まだ話してないことがあるんですよ。

藤原:お?

加藤:と、ここで?来週に続く!

藤原:えぇ?????!


つづく

かめまろちゃんネル vol.76


さてさて、不思議な体験談を語ってくれた某さんのお話の中に、実はもう一つ極めて重要な言葉があったことを、内山さんが今宵初めてお話いたします。その言葉は、亀麿君の本当の血筋を示すかのような、重い言葉でした。
と、まぁ、おもわせぶりなことはさておいて、今月最後の、そして「亀麿様逃避行」の最後を飾るエピソードを、どうぞじっくりとお聞き下さい

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加藤:
はい、皆様今晩は。先週までずっと亀麿様逃避行について語ってまいりました。

藤原:
いや?、長かったですね?! 亀麿様の逃避行くらいに長かったかも?

内山:あははは。

加藤:そして先週、内山さんが番組終了間際に「実は!」っていう、ね。

藤原:そうそうそう。なんですか? その「実は」って?

内山:
はいはい。実は、ですね。その逃避行を見たという方がおりましたよね? 大変参考になったというか、私も調べていくにつれ、どっぷりとそっちの方に傾いちゃいましてね。もう本当に充分参考にさせてもらったわけですが、前回までの番組でまだ言ってなかったことが一つあるんですよ。

加藤:おぉ?

内山:
でね。私、その人に聞いたんですよ。「亀麿様」のことを、同行者の方々はなんと呼んでいたのか?」って。そうしたら、「亀麿様とは呼んでおりません。親王様と呼んでいました」と言うんですよ。

藤原:・・・それって、モロ天皇家っていうことですよね?

加藤:すんごくえらい人ってこと?

藤原:えらいというんじゃなくて、天皇家の・・・・。

内山:血筋の方である、ということです。

藤原:
ぶっちゃけ、後醍醐天皇の血筋? まぁ、子とか孫とかまでは言わなくても、その血筋であるということだよ。

内山:そうですよね。それでね、ちょっと調べてみたんですよ。

藤原:出ました!「ちょっと調べてみたんですよ」が(笑)。

内山:えぇ。それでね? 後醍醐天皇に繋がる人物ではなかったのか?と。

加藤:そう考えるのが普通ですよね?

内山:そう。親王というのがはっきりしていれば、間違いなくそうなんですよ。なので、ちょっと糸口になるかなと思って調べてみたんですよ。そうしたらですね、この後醍醐天皇というのは子供が何人いるか分からないくらいに多いんですよ。本当に大変なんですよ。ある文献によると、
「後醍醐天皇は中宮(正室)が二人、女御(にょうご)一人、宮人十七人・・・」とあるんですが、これはつまり、奥さんが2人いる他に、側室が全部で18人いるということなんですよ。

藤原:大奥だね、まるで。

内山:だから、合計で奥さんは20人いるっていう・・・。

加藤:誰ですか?今、うらやましいとか思った人は?

藤原:
でも、これ一部だからね?。一説によるとそういう女性が700人以上もいたらしいからね。そしてそれぞれに子供やら孫やらがいたというから・・。

加藤:700人以上? それじゃ毎日回ったとしても2年ぶりとかですよ?

藤原:知るか!そんなこと(笑)。

内山:
それでですね。子や孫はどうかというと、列挙してあるんですよ。
ダァーっと。この資料には。まぁ、20人くらい書いてあるんですけど、そのあとに「その他大勢」って書いてあるんですよ(笑)。

藤原:あははははははは! 編纂した人も困ったんでしょうね。

加藤:エキストラじゃん! 書き切れねぇよ!って。

内山:
まぁ、全てが分かってるわけではないんですよね。ましてや歴史の表舞台に出てこない名前はものすごくたくさんあるだろうと。
それでですね。後醍醐天皇の子供や孫で、はっきりしているものをいくつか当たってみるとですね。そのはっきりしているものの中にも他の家で養育されたり、養子に出されたりっていうのが結構いるんですよ。まぁ、こんなこと言うのはどうかと思うけど、後醍醐天皇はあちこち手を出してたんじゃないかな?と思うんです。

藤原:そうそう。かたっぱしからね。

加藤:
エッ? 正室2人側室18人もいるのにかたっぱしから手ェ出してたと? 誰ですか?うらやましいとか言ってるのは! あ!なんか埼玉県の方から・・・ま、いいや。

藤原:あはははははは。

内山:
とにかく養子もすごく多いと。そういうふうに考えると、長谷川氏、というのは藤原氏の家系でしたよね? だから、仮に養子として迎えたとしても、あるいは養育をまかされるとしてもね。長谷川氏がその任を担うのは不自然ではないんですよ。京都にいる藤原の家系ですから。そう考えると、亀麿様が後醍醐天皇に繋がる可能性というは充分に考えられるんですよ。

藤原:
あの・・・これは言っていいのかどうか・・・
まぁ、今さら隠すのもどうかなと思うことなんだけど、以前、五日市洋さんから、「実は、亀麿様は天皇家の血筋にあたるお子さんだと聞いています」ということを伺ったことがあるんです。

内山:
そうだと思うんですよね。それでね。後醍醐天皇の母親は藤原姓なんですよ。正室も藤原姓の人がいる。それから、側室にも藤原姓の女性がいるんですね。後醍醐天皇の子供も同じように正室が藤原姓の人だったり側室にも藤原姓がいたらしいですね。

簡単なことを言えば、長谷川氏の娘が後醍醐天皇の子供と結婚したとしても不思議ではないんですよ。もしくは、後醍醐天皇の側室になってもおかしくはないんですよ。そうすると、養子に入るとすれば母方に養子に入ったとしても不思議ではない。

加藤:ははぁ?、なるほど。

内山:
だから、亀麿様が後醍醐天皇の血筋であるという可能性は捨てきれないんですよね。そう考えると、その逃避行の際、親王様、あるいは親王とお呼びしていたという話は、それなりに信憑性があるのかな、と。

藤原:
それに、そこそこの位の人なら京都から南部藩(東北)までは逃げないでしょう? やっぱり天皇家の血筋だということで、追っ手もとことん追うだろうし、福島まで逃げてきたのに、さらに北へ向かうっていうのはね?。尋常なことではないと思うしね。

内山:
ですよね?。まぁ、足利軍はそれほど考えてなかったのかもしれないけど、自分たちは天皇の血筋だということが分かってるわけだから、危機感は感じますよね。

加藤:
ふぅ?ん。だからこそ、自分無き後、この一族を末代まで守るということを、齢6才の子がね? 考えていたんだって言われると、なるほどそうかなって思えますよね

藤原:
そうだね。6才とはいえ、帝王学のようなものは学んでいたと思うし、そうでなければ死ぬ間際に一族を末代まで守ろうぞ、なんて言えるわけがないような気がする・・・。

内山:
そうですね。おそらく親は逃げてないと思うんですよ。ていうのは、父親というのは、長谷川氏、侍ですから。そりゃ、京都のど真ん中でさぁ来い!とはならないでしょうけど、でも、大将から率先して逃げるなんていう話にはね。ならなかっただろうと思うんです。

藤原:
または、家族を無事に逃がすため、自らが捨て石となって敵を迎え撃つっていうことも考えられるし。

内山:あぁ、ありますあります。

加藤:
もう、家族よりも家だ血筋だっていうのはね。自分の中にはそういう感覚はまったくないので、なんか嫌な感じですよね?。でも日本はちょっと前までそういう国だったということですね。

藤原:ん??、亀麿様・・・。謎多き王子様ですな?。

内山:
そうですね?。まぁ、いろいろな資料だとか、いろんな方の話だとかを参考にして、こうやって組み立てて来ましたけど、まぁ、なんら確証があるという話ではありませんからね。

加藤:そうですよ?。これはみな、我々の推察・・・ということですよ?。

藤原:いや、それにしてもなかなか有意義なお話でございました。

加藤:
まだ、これからもいろいろな話が出てくるような気もするけど、とりあえずこれでこのお話は一件落着ということでいいですか?

内山:はい。長い間ありがとうございました。

加藤:それではみなさん、さようなら。

おわり

 



 あとがき


わずか6年間という短い年月を、風のように走り抜けた亀麿様の生涯。ところどころに残っていたエピソードを、あらゆる資料や不思議な体験談などを元に、考え得る限りの推察と検証で鮮やかに紡ぎ出した「亀麿物語」、いかがだったでしょうか。

これは、当時亀麿会の内山会長が事務局の二名と共に導きだした亀麿様の足跡をたどった架空のドキュメンタリーとも言えるものですが、個人的にどうしても腑に落ちない点がありました。それは、京都を逃れて五日市にたどり着き、そこで数ヶ月をすごしたから、五日市という地名を名字にした、という部分です。たったそれだけの理由で一族の象徴ともなる名字を決めたというのが、どうしても納得できませんでした。

そこで、僭越ではありますが、これまでの推察にもう一つ、ごく個人的な推察を加えて、自分なりにこの物語を完結させようと思い、この場をお借りして私の推察を述べたいと思います。どうぞお許しください。

さて。京都を逃げ出した亀麿様ご一行。父親はおそらく内山会長の推察通り、京都で討ち果てたであろうと思われますが、私は母君も亀麿様と一緒に京都を後にしたと思うのです。そして、その身には後に五日市家初代となられる弟君を身籠もっておられたのでは?と考えるのであります。
やっとの思いで五日市まで逃れてきた時、いよいよ臨月となり、彼の地で母君は弟君をお産みになられました。つまり、五日市こそが、亀麿様の弟君の生まれ故郷なのでは?と思い至ったのです。

その後、乳飲み子だった弟君が自分の足で歩けるようになるまでの数年間、五日市で過ごされたと思うのですが、母君様がどうなったのか?そこまでは推察しておりません。ただ、その後の逃避行には同行されていなかったことだけは確かであろうと思われますが・・・。

そして、本文にあるような幾多の困難を乗り越え、弟君は金田一にたどり着き、元服の後、藤原の彦左衛門繁春という名を名乗りました。やがて月日は流れ、繁春の子孫は代々言い継がれてきた初代の生まれ故郷が、五日市という地名が付いたことを知ることとなります。そして、幕府の政策により、九代続いた繁春の子孫は名主として名字を名乗ることを許され、それならば初代が生まれた故郷「五日市」こそが我が名字に相応しかろうということで、五日市姓を名乗るようになった・・・・、というのが、私の推察でございます。

こじつけだと思われるかもしれませんが、そういうエピソードでもない限り、五日市という地名を何百年も経ってから名字にするという不自然な行動の説明がつかないと思ったのであります。

本書で語られていることは、すべてがうたかた・・・。
ならば、ささやかなうたかたがもう一つ増えたとして、何が変わるわけでもなかろう、というわけで、このような稚拙な推察を述べさせていただきました。

本当の真実はすでに闇の中です。だからこそ亀麿様の真実を追うというのは我々緑風荘ファンの永遠のロマンです。他愛もない夢物語をお読みくださり、ありがとうございました。



藤原秀次郎




 

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